夢のまにまに食堂?(デカ盛りやってます)

悶々と帰宅。 夜に相方から電話がかかってくる。
昨日のエレカシのDVDの感想など語り合う。 石君が三度結婚しているという話題になり、きっと嫁たちから「私と宮本とどっちが大事なの??」と聞かれるんだろうね石君・・といって笑う。さらに、昨日のサンドウイッチがおいしかったという話から、今日私がみたデカ盛り食堂特集のテレビの話になった。全国にあるデカ盛り食堂。その多くは自分が食べられる分だけのお金を稼げたらよくて儲け度外視で若い人相手に破格の値段でデカ盛りを提供し続けている。私などひねくれているから「こんなデカ盛りでこんな値段・・何か裏があるに違いない・・」と思ってみてしまうけど、最後はその食堂の人たちの心意気みたいなものに泣かされてしまった。無償の愛に近いもの。お金より大切なものがある なんて使い古された言葉をあてはめて許されるのは この人たちが日々そのことを実行しているからだと思う。 口にするまでもなく体に染み付くほどに。今日の私にはしみる話だった。
ふとその話から相方が「お前も将来小さな食堂みたいのやれればいいのにな。」と言った。突然だったのでびっくりしたけれど、前々から思っていて昨日のサンドウイッチとかで決定的に思って今日のデカ盛り食堂の話でさらに強くそんなことを思ったらしい。
私はただただびっくりした。 私は食堂ができるほど料理がうまいわけじゃないし、相当めんどくさがりなので食堂なんて無理だと自分で分かっている。
だけれども。小さな食堂。朝早くおきてその日の分の仕入れをし、仕込みをし、体を動かし、素材と話をし、余計な感情を入れずただただ調理をする。訪れる人たち(お年を召した方たちがいい そんな人たちが寂しく食事をしているのがとても嫌なので。)と言葉多くはかわさないけれども美味しく食べてもらって暖かくなって帰ってもらう。お店を閉めた後はまた余計な感情を入れずにひたすら片付け、今日出来る仕込をし、明日にそなえて深夜に眠りにつく。
それは私にとって食堂という形ではないかもしれない。 けれど そんな食堂を営んでいるような日々。それは私がいつも理想としているものだった。
相方は知っていたのだろうか。 日々を食事を眠りを断片的に共有することで感じ取っていたのだろうか。私のそんな夢みたいな日々の理想を。「自分がお店を開かせてあげられるくらいの財力があったらいいんだけどな」と相方。(そんなパトロンみたいな真似はいいです・・)「でも、本当にお前はやったらいいなと思う。いつか定年後とかにでもできればいいな」とも。
夢のまにまに食堂。 それは本当に食堂ではなくてもそんな日々を営んでいけたらいい。(心はデカ盛りで・・。)明日、今日避けてしまった男の子に「昨日いたよね!シカトしてゴメン!」と話しかけよう。