記念日

今日は、8月9日。私の生まれ育った土地ではこの日は記念日。原爆記念日というものです。小学生のころから夏休みでもこの日は登校日で、体育館に全校生徒集まって被爆体験をされた先生(必ず小学校に一人はいたものです)のお話を聞いた。いつも陽気な音楽のおじいちゃん先生が泣きながら話されたこともあった。
小学校のころはこの登校日が嫌で嫌で怖くて怖くてしかたなかった。何故かというと、御覧になった方はいるだろうか「被爆写真」というもの。焼け野原やけがをされた人たちのパネル写真が玄関から廊下からとにかく目に触れるあらゆるところに展示されていてその内容は本当に残酷なもので目をつぶって廊下を走りぬけては先生に注意されたものだった。高学年や中学校にあがると写真内容がソフトなものに変わり、原爆資料館などでも最近はあまり残酷すぎるような展示は姿を消したように思う。それも時代の流れかもしれない。
だけれども。その写真や身近な体験者の話の記憶は自分のどこかに残っていて「戦争」という言葉が、どれだけ武器や戦い方が進歩しようが決して綺麗事ではないとはっきりとぶれずに言うことができる。どんなに理論武装してこられても。要はそれは肉の焦げる匂いだったり、皮のはがされる痛みでしかない。少なくとも自分みたいな庶民が巻き込まれるとしたら。あの目をつぶってもどうしても見てしまったパネル写真達。夢に見るほどそれを恐れた子供たちは皆そう思っていると思う。
だから11時2分の黙祷のサイレンが鳴る時、どこにいても私は目を閉じる。今日はデパートのトイレだった。年配の女性も鏡の前で目を閉じていた。
「戦争反対」という言葉だけを掲げてデモをするよりも、それは、美しい光景のように思えるのだけれど。そしてその光景を続けてつなげていくことが「戦争反対」という意思表示なのだと思う。